バシュラールの生涯 【後編】

こんばんは、松丸です。
今回は、前回予告した通り、1912年からのバシュラールの生涯をご紹介していきます。


コレージュを卒業後、郵便局員や兵役などを経験しつつ、1912年、独学で数学のリサンス(学士号に相当する資格)を取得したバシュラールは、電信電話技師の資格を得るために学校に通い始めます。
まだ当時はパリの郵便局に勤めていましたが、試験準備のために、有給での1年間の自由時間が認められていたようです。

また、1914年7月には、バシュラールは小学校教師のジャンヌ・ロッシという女性と結婚します。
彼が30歳の時でした。

しかしちょうどこの頃、第一次世界大戦が勃発、十分な新婚生活を送ることなく、バシュラールは8月2日から兵役につくことになります。
休暇が認められ、ようやくジャンヌと再会できたのは、約一年も後の、1915年12月のクリスマスの時期でした。

兵役のうちで約3年間、バシュラールは危険な前線に配置されていました。
さらに家庭では夫人が病気になり、生活費を確保しようと、彼はより良い給与が望まれる少尉になるための昇格試験を受けていました。
この約5年間にわたる兵役は、バシュラールの人生の中でも苦難の時だったようです。

バシュラールがようやく市民生活に戻ることができたのは、1919年の3月のことでした。
34歳という年齢のこともあり、技師になることを諦め、同年の新学期から、故郷のバール・シュル・オーブでコレージュの教師になります。
ここで彼は生徒たちに物理学と化学を教えていました。

また、この年には娘のシュザンヌが誕生しています。
しかし、約1年後の1920年、妻のジャンヌが肺結核のために亡くなります。

戦地から復員し、娘も生まれ、これからやっと家庭生活を築き上げていこうという時の、この不幸に対するバシュラールの悲しみは計り知れないものがあるでしょう。
後の著作の中で、彼が夫人の死について言及することはほとんどありませんでした。

教師と育児を両立しつつ、バシュラールはこの頃から、哲学の勉強を始めます。
そして年末にはリサンスを、さらに2年後の1922年には、アグレジェ(高校以上の教育機関でその科目を教えることができる資格)を取得します。

当時、哲学書が付近の図書館になかったようで、彼は2週間ごとに電車に乗ってディジョンに行き、スーツケース2つ分の書物を抱えて戻り、そうして受験準備をしていたといいます。
以降、物理学と化学以外にも生徒たちに哲学を教えるようになります。

この時期、バシュラールの両親が立て続けに逝去していますが(1923年に父親、1925年に母親)、バシュラールは再婚することなく、独り身でシュザンヌを育てていました。
しかし一方で、博士論文の準備を始め、1927年5月にはソルボンヌ大学にて、「極めて優良」という評価とともに文学博士号を取得するに至ります。

その後、ディジョン大学での非常勤講師勤務を経て、1930年には文学部の哲学教授に着任します。
ここでは簡単に触れるにとどめたいと思いますが、前回の更新分でも書いたように、大学人としてのスタートは遅いものでしたが、それ以降のキャリアは明るいものでした。

1940年からはパリのソルボンヌ大学で教えるようになり、1954年に引退する際にはソルボンヌ大学名誉教授に任命されます。
著作は、1928年に博士論文を処女作として発表したのち、約20冊近く出版され、レジヨン・ドヌール(国家が認めた功労者に授けられる勲章)も三度受賞し、亡くなる前年の1961年には文学国家大賞を受賞しています。

そして1962年、バシュラールは78歳でその生涯を閉じます。
故郷のバール・シュル・オーブに埋葬されることになりましたが、その葬儀には親しい友人たちが集い、彼の死を悲しんだようです。


以上、かなり駆け足でバシュラールの生涯、とくにその前半に着目してご紹介してきました。
(長文になってしまいましたが、ここまで読んでくださった方、ありがとうございます!)

ちなみに、『空間の詩学』は彼の晩年にあたる、1957年に出版されたものです。
その中に、今回紹介したような、バシュラールの若かりし頃の経験の影響を見ることは難しいかもしれません。
ただここでは、どのような人間がこの本を書いたかということを、僅かなりともお伝えすることができていたら、と思っています。

個人的には、決してエリート的ではないバシュラールの歩みが、とても興味深いものでした。
みなさんは、どのようなことを思われたでしょうか?